伊奈備前守の名による当山保護の三ヶ条には、一、於当山殺生禁断之事一、不寄僧俗悪口狼籍之事一、一之澤、二之澤の内にて竹木不可伐取之事右條々於相背輩有之者可為曲事者也との掟が定められております。
さらに享保三年(1718年)には徳川幕府より更めて山林十六万五千六百坪を賜りました。
ご開山弾誓上人、二世但唱上人、四世空誉上人は特に有名な木食僧で幕末には木食五行上人も修行しており、弾誓派の本山として約四十名の僧が、常時修行をいたしておりました。
浄発願寺は、上野の寛永時学頭であった淩雲院の末寺として大いに勢力を誇り、伊豆、相模、武蔵、信濃、佐渡の諸国に末寺十八を有するに至りました。
第四世空誉上人の時には、日光輪王寺宮法親王より特に上人号を賜わり、以来代々、時の法親王より賜っております。
空誉上人は幕府より罪人五十三人を乞い受けて道心となし、共に山内険難の処を開拓して諸堂宇を建て、以来、諸願霊験、響きの応ずるが如し道俗貴賤士庶の帰依厚く法燈相承、益々繁盛をなしました。
五十三段と称する石段は罪人たちによりその罪ほろぼしのため作られたものであります。(現在の石段は神奈川県並びに伊勢原市のご協力によって修復されたものです)
そして空誉上人植徳以来『駆け込み寺』として明治に至るまで、放火、殺人以外の罪人が当山の寺院に足を踏み入れば、其の罪を許されることが、官民一般の公認するところとなり、誠に霊徳偉大でありました。

その浄発願寺も、不幸にして昭和十三年の関東一円暴風雨の際、崖崩れの為、本堂並びに諸堂宇ことごとく泥中に呑み込まれ、数多くの文物を失 い鳥有に帰してしまいました。かつては、相模国(神奈川県)の天台宗の寺として最も栄えた浄発願寺は、其の後神奈川県並びに伊勢原市、そして十方信心の善 男女諸氏の宗派を超えた協力により、一歩一歩、誠の教へを広めるべく復興に向かっております。 |